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zoom RSS 三原市と秀策との関わりについて

<<   作成日時 : 2011/07/23 23:20   >>

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昨日の続きになるが、「碁聖本因坊秀策小伝(※)」の中から、当市に関係する部分を抜き出してみる。
三原の囲碁愛好者として、この程度のことは知っておきたいと思ったからだ。

秀策の父、桑原輪三は、現三原市西野の安田家の次男坊で、因島の桑原家に入り婿した。
安田家は代々庄屋をつとめ、安田家だけの氏寺(=西福寺)を持つほどの名家だった。

秀策は輪三と母カメの次男として1829年に生まれた。幼名は虎次郎。
母が当時としては珍しく囲碁を嗜んだことから、5歳の虎次郎に手ほどきした。

父が商人で、尾道の旦那衆とも親交があった。なかでも尾道きっての豪商、橋本吉兵衛は尋常ならざる天分を見て6歳の虎次郎の後ろ盾になる。
そして7歳にして三原城主に所望され、三原城内で対局した。
三原浅野家第10代浅野甲斐守忠敬である。
忠敬は、虎次郎の棋力に感心し自らの指南役、竹原宝泉寺の住職に指導を依頼する。

このころ、名前を安田栄斎と改め、茶坊主として頻繁に出仕した。
安田姓は父の実家である。

(やはり虎次郎は何度も召しだされていたのである)→http://hasunatu.at.webry.info/201102/article_23.html

栄斎9歳のとき、芸州随一の打ち手であった師匠をしのぐほどになり、城主忠敬は江戸の浅野家を通して本因坊家に弟子入りの許可をとった。

2年後、栄斎11歳にして初段になり専門棋士としてスタートする。
翌年、故郷に錦を飾る。
このとき三原城主は5人扶持の家禄を与えて祝福した。
また、江戸に帰ると直ちに二段と、秀策への改名免状が与えられた。

4年後、16歳で帰郷したときは四段に昇段しており、三原城主は12人扶持に増禄した。
このときの帰郷は1年に及んだが、江戸に戻る途中、大阪で井上幻庵因碩と打った碁で有名な「耳赤の一手」が出た。秀策18歳のときである。

20歳で第14世本因坊跡目になり、お城碁に出るようになった。
このあと秀策が帰郷したのは、22歳と29歳のとき。いずれも花形棋士としての凱旋だった。

1862年8月10日、コレラにて病死。34歳。

(※)尾道市囲碁のまちづくり推進協議会発行・著者柏原 弘

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